わずか10数秒で走り抜ける――
100m走を通して“一瞬”を描いたのが魚豊先生の『ひゃくえむ。』だ。
この作品の醍醐味は、勝者がいつまでもその立場にいられるわけではないという真理と、登場人物たちの言葉。
それらから読者が何を感じとるのか――
後編では、魚豊先生が『ひゃくえむ。』に込めていたメッセージ、あのキャラクターが何を考えていたのかなどを深く話していただきました。
前編はこちら。
人生を楽しみながら現実から逃げる――『ひゃくえむ。』を通して伝えたかったこと
――先生のお話を伺っていると、真逆のものが実は混在しているんだ、ということに気付かされますね。
魚豊先生:
そうですね、それこそが読者に伝えたいことですし、自分にも言い聞かせたいと思っていることなんです。
――『ひゃくえむ。』を通して伝えたかったこと! 気になります。
魚豊先生:
ひとつは、漫画よりも実人生のほうが楽しいのでは……?ということ。
もうひとつは、人生なんて辛いんだから、漫画を読んで現実を忘れてもいいのでは……?ということです。
――これもまた、相反するような内容ですね。
魚豊先生:
補足すると、僕は漫画の世界は「嘘っぱち」だと考えています。
現実世界にあるようなきれいな青空や木々の緑、空気の香りを漫画では感じることはできない。そういう当たり前のものに触れたときに、「幸せだなぁ」「面白いなぁ」と感じることってありますよね。
「神、マジスゲー!」と感心してしまうほど、この世界はよくできているということを感じるとき、人生は輝いていると思うんです。
逆に、たとえ楽しくても死んでしまうという現実もある。死ぬのって怖いですよね。ぼくは怖い。それを忘れられるのが漫画の世界。現実逃避だと言われてしまえばそれまでなんですが、死の恐怖に怯えるよりいいと思うんです。
実人生では楽しいこともあれば、辛いこと怖いこともある。
漫画の世界にはいつも楽しいものがある。その矛盾を包含するようなメッセージを自分も感じたいし、読者にも感じてもらえたら、と考えています。
――それが海棠選手の「現実逃避」というセリフにもつながるわけですね。魚豊先生は強者にも弱者にも作品中で寄りそっていないと感じます。
魚豊先生:
強者も弱者も、現実には存在しないんじゃないでしょうか。
だって、どっちにもなりえるんですから。そう考えれば、人生はかなり楽になりませんか?
『ひゃくえむ。』には「なぜ走るのか」という台詞を入れました。「走る」は「生きる」に置き換えられる。100m走は10数秒で決着が付く。実は人生だって同じく一瞬なんじゃないか。その一瞬に輝くことができるのか。
逆にみんなそれぞれの思惑があるのに、そのときだけは同じゴールに向かって走る。トガシや小宮、仁神、財津や海棠など、異なる思想を持つ人たちでも、1つの目的のために連携できるんだ、というメタファーになる、100m走って人生の縮図なんだとぼく自身も描いていて感じました。
魚豊先生にとって“漫画”とは
――人間ドラマを描きたい、ということでしたが、なぜ漫画という方法を取ったんでしょうか。
魚豊先生:
漫画って、自分と他者がほどよく関わって、はじめて完成する作品だと思うんですよね。
――と言うと?
魚豊先生:
映画は、映像や音、言葉など監督など制作側の“自分”が強く出ると思います。
小説は他者、読み手自身が映像をすべて想像できる自由さがある。漫画はちょうどこの中間なイメージ。
漫画家は絵柄とセリフを提供して、読者は自分のスピードでページをめくる。途中で止めることもできるし、じっくり見る、パラ見するなど、人それぞれの読み方があって、自分の好みで「漫画」を完成させられる。自他の関係がちょうどよいバランスで関わり合って完成させることができるのが漫画なのではないかと思っています。
――めくることで読者も漫画の完成に参加できるというのは面白い視点です。
魚豊先生:
いい物語は人生を豊かにしますが、そこに読者も関われる、という点で、漫画はちょうどいい媒体だな、と感じています。
――そういえば、ひさしぶりにトガシと小宮が会ったシーンは二度見してしまいました。久しぶりなのに小宮は冷たい……ちょっと気になるシーンでした。
魚豊先生:
この頃の小宮は、部長からいじめられ、他者を切り捨てる存在になっていたんです。もう、記録以外のものが見えていなかった。だからトガシにも関心がなかった。そう考えると、何もしゃべらないのが彼らしいのかな、と。
――こういうシーンを見る度に、先生は「強者にも弱者にも寄っていない」と感じるんです。
魚豊先生:
なるほど。
ほとんど全編を通じてトガシは他者からの承認を欲していたし、小宮は他者を避けてきた。真逆の2人が、物語が進むにつれて真逆の結論に到達する。だけど、どちらにも希望があるし、現実世界ではどちらの結論も真実として存在する。
結局、人の内面を他人が理解することはできないので、完全否定ってできませんよね。どちらがたどり着いた結論も“良い”ものなんです。
――そんな2人がまた再会したあのシーンは読む側としても嬉しい瞬間でした。ああいうシーンを"読んでいる”のではなく、"感じる”。現実で2人を見ているような感覚が『ひゃくえむ。』の魅力のひとつだと思っています。
魚豊先生:
それは嬉しいです。
狙っていたわけではないんですが、背景を誇張する、閃いたときに頭の上に電球を描くなどの漫画的表現はできるだけ避け、現実に近い表現を心がけていました。
――ちなみに次回作のご予定は?
魚豊先生:
スポーツものもいいですね。ヒーローものも作れたらいいなぁとは思っています。ただ、人間ドラマを描きたいという軸はブレずに持っていたいですね。
ぼくの作品を時間を割いて読んでくださっている読者のみなさんには本当に感謝しかありません。みなさんと一緒に『ひゃくえむ。』を完走できた、と思っています。
――最後の質問ですが、「魚豊」というペンネームの由来を教えていただいてもいいですか。
魚豊先生:
あー、これは、「鱧(ハモ)」が好きなのと、何となく居酒屋っぽいからという理由でつけたんです。「鴨肉鱧肉(かもにくはもにく)」とか「虎視眈々麺(こしたんたんめん)」とかいろいろ考えていて。
ただ、編集部から「勘弁してください」と言われてしまったので、「福は内!鬼は外!」を短くしたものにしようと思ったら、平賀源内さんがすでに使っていたんです! 江戸時代に同じこと考えている人がいたのかよ! というところで諦めて「魚豊」に。
シリアスな漫画なのに作者名がふざけていたらバランスがいいかなぁと思って(笑)?
――魚豊先生、ありがとうございました。次回作も楽しみにしています!
前編はこちら。